【映画感想】シン・ゴジラ/鑑賞後に絶望した3つの理由(ネタバレあり)

movieシン・ゴジラは劇場で鑑賞して良かったと思える映画でした。しかし観終わった後に一番強く感じたのは、希望や感動ではなく絶望。でもツイッターなどでは大絶賛の嵐になっていて、なんだかギャップがありました。その理由を考えてみます。

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その1:若造が口を挟める優しい世界への絶望

物語序盤から、矢口内閣官房副長官(長谷川博己)が会議の中で何度も口を挟んでいます。後に正しかったと証明されますが、不確実で信じがたい怪獣襲来の可能性を示唆したり、周囲とは異なるセンスや言動で浮いた存在になっています。

彼がこの物語のキーマンであり、そしてこれからの日本を背負って立つ役なので目立ってくれた方がわかりやすいのですが、あんな風に内閣や各省庁の面々が揃う中で若手の一人が口を挟むことなんで実際できるんでしょうか。筋書きを作った上での会議の場で、予定にない質問などを割り込ませることが許せるのでしょうか。

現実にそんなことばかりしている若手がいたら、出世できなくなるどころかその場でつまみ出されることになるのではないかと思ってしまいました。作中と同じく、彼のような存在があれば日本はまだなんとかなるという希望が、現実にはこんな奴いねーよ!=現実は救えない!という絶望につながってしまっていたようです。

 

 

その2:はみ出し者に光が当たる平等な世界への絶望

矢口を中心に設置された巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)には、ゴジラに対抗するために各方面から多様な人物が集められます。選ばれたのは、平和な日常が続いていたなら取り上げられることもなかっただろうはみ出し者のチーム。そんな彼らが日本を救うため、ゴジラに比べ地味ながらも解決策を求め続ける姿には心を打たれました。

でも本当に危機が訪れたとき、そんな人たちを集めようなんて発想があり得るのでしょうか。実際には政治家とつながりのある有名な大学教授や三菱重工など軍事産業にお願いして終わりなのでは。寄せ集めで、現場の個々の声が活かされるチームなど生まれたりしないだろ!=柔軟な発想でゴジラ退治など無理!という絶望が生まれたようです。

 

 

その3:都合よく放射性物質の被害が収まってくれる幸運な世界への絶望

ゴジラが活動を停止したことにより体外への放射性物質の放出も収まり、予想より早い東京の復興が可能になりました。

現実を見てみると、福島原発の事故からはすでに5年以上が経ちましたが現在も放射性物質による汚染(主に海中に流れてますが)は続いています。廃炉になるまでは30年から40年はかかる見込みであり、しかもその方法はまだ確立されていません。映画の中では放射能汚染は深刻じゃない=現実はもっともっと深刻だろ!という事態の重さに絶望したようです。

あんな危険な物体の近くに住もうなんて思う人はいないでしょうから復興したとしても立ち入り禁止区域のような扱いになるでしょうけど。スカイツリーと並ぶ東京観光名所にでもするんですかね?

 

 

まとめ:絶望の原因は映画ではなく現実にあった

劇中での設定や描写が本格的なだけに、なるほどこうであればゴジラにだって対処できるかもしれないと思えたりもします。その辺りも現実に近く作られているだけに、実際に起こりえない状況とのズレを感じていたようです。

映画のように若きリーダーに未来を託すこともできず、能力ではなく肩書きで人を選び、今なお収まらない原発事故の影響から目を背け続けている現実の日本に対して感じるもどかしさ。『シン・ゴジラ』という映画によって、見ようとしなかった本当の日本の姿を突きつけられ、そこに未来を見いだせなかったことへの絶望なのでしょう。

とはいえ簡単に諦めてしまうこともできないので、向き合い続けるしかないのだけれど。

 

 

おわりに

いろんな見方ができる『シン・ゴジラ』。作品に込められたメッセージの紐解きや過去の作品との関連性、また独特のマーケティング方法などにも目を向ける人もいます。

『テラフォーマーズ』と同じ15億円の予算だったという話もあり、深く考察するだけでなく会話のネタとしてもしばらくは楽しめそうですね。

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