映画

匂いの無い世界

年末に突然入院することになった。前日からなんだか調子が悪いと思って病院に行き、その日に緊急手術を受けてそのまま病室に運ばれた。まさかの事態だったので、持っていたものはリップクリームとハンドジェル、たまたま前日にバックに入れて放置していた読みかけの文庫本と残り数日を残す手帳だけ。着替えもないので近くの友人に頼もうと思ったら帰省してるし、関東に残っている知人はだいたい家族と一緒なので頼みにくい。なんともタイミングの悪い時期での拘束だ。

とはいえ少し高いけど下着は病院の地下階にあるコンビニで買えるし、その他の着替えもタオルもレンタルで取り替え放題。思いついたことを手帳にメモしながら読みかけの文庫本をゆっくり読み進めれば、思っていたほど不自由はなかった。

紆余曲折あって滞在先は横浜のみなとみらいにある大きな病院になった。近くのパシフィコ横浜からは夜な夜なライブの重低音が響き、遠くに見えるベイブリッジのすぐ横には毎晩5分間だけ花火が上がった。瞬いては消えていく閃光に火薬の匂いを思い浮かべて、そういえばこの病棟には匂いがないと気づいた。

意図的に、まるで何かを意識から逸らすため徹底的に清められた演出に、先日鑑賞した『かく恋慕』を思い出した。

かく恋慕

「もういーかい」

突如始まる夫婦かくれんぼ。主人公のアリカ(手島実優)は鋭い嗅覚の持ち主。帰宅した夫のコウキ(札内幸太)が家の中のどこに隠れようとも、匂いだけを手がかりに彼の行動をトレースして最終的にどこに潜んでいるか突き止めてしまうのだ。その敏感さ故に自宅内に引きこもっていたアリカだったが、とあるきっかけで外出を始めることになる。

様々な匂いが満ち溢れる外の世界で感じる風の匂い、インスタント焼きそばの匂い、焼きたてのパンの匂い、そして愛する人の生命の匂い。それらを受け入れるアリカの表情の1つひとつが新鮮で、映画だというのに目を閉じて記憶の中の匂いを探しに行きたくなってしまう。

コウキはそんな繊細な妻のことを思い、妹のカスミ(芋生悠)へ密かなお願いをする。それは残酷な、だけどアリカに対する究極の愛情表現。託されたカスミは鮮烈な印象を残す行為で任務を遂行する。ここだけ取り出してアーティストのMVとかに使えそうなほどセンセーショナルな演出に主題が吹っ飛んでしまうくらいの衝撃を受けた。えーとなんだっけ、そうそうこの映画のテーマは匂いだ。匂いとは生き物が発する信号であり、生きている証だ。もしかすると生死の定義とは魂の在処でも心臓の鼓動でもなく、匂いという信号がまだこの世界に残っているか否か、と言い切ってしまっても良いのかもしれない。

表には出さない思いを常に背負っているのが伝わってくる演技の手島さんを初めて知ったのは『赤色彗星倶楽部』だった。その少し前の上映会に登壇していたひと:みちゃんからパンフレットを頂き、興味をもってポレポレ東中野での初回上映に足を運んだ。その頃よりもずっと大人っぽく、深い演技の人になっていた。ひょうひょうとしながらも確固たる決意を秘めた札内さん、おならのシーンやクライマックスの演技でインパクト大の芋生さん、それぞれの個性が作品の中にもうまく活かされていて、菱沼康介監督は普段の3人もよく知っていて皆を信頼しているのが伝わってくる。このメンバーである意味3Dを超えた新しい挑戦をしようというのだからクラウドファンディングで海外を目指そうとする気概も納得ができる。

おわりに

外来診察はすでに年内の診察が終了し、急患でもなければ患者はやって来なくなった。入院病棟は退院や一時帰宅する人たちも多く、どんどんと空き部屋が増えていった。閑散とした廊下を歩いていると時折すれ違う看護師さんたちや補助器具を使って歩くおばあちゃんたちの生命の熱を感じて少し安堵する。でもやっぱり匂いはしない。たまたま扉の空いていた処置室の中に横たわる患者さんが見えた。日々、たくさんの人たちが訪れては無数の匂いの粒子を残して去っていくこの病棟には、きっと残してはいけない匂いもあるのだろうと思いついたところで怖くなって考えるのを止めた。

大晦日の直前になって年内での退院が決まり、また匂いのある世界に帰ることになった。そこで僕はもう一度、生きる証でもある匂いの粒子を世界に放つ。それはきっと生き物の大事な役割なのだろう。インフルエンザに続いて入院と日に日に弱り続ける僕の身体からは、きっと弱々しい力でしかないのだろうけど、本当に誰かに届いたりするんだろうか。

映画

(C)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

お姉さんは不思議だ

2人兄弟の長男なのに「お姉ちゃんっ子だったでしょ」とよく言われる機会が多いのは、間違いなく年上の従姉妹の影響だ。母方の実家を訪れると、幼い頃は身体が弱くて激しい運動のできなかった僕は1つ歳上で元気な従兄弟と一緒に遊ぶより彼のお姉さんに相手をしてもらう方が多かった。出会ったときは小さな動物のぬいぐるみが住んでいるミニチュアの家を見せてもらうのがお気に入りだった。小さな家の中には暖炉があって暖かそうな室内には落ち着いた色調に統一された家具が並んでいた。僕は動物たちとお姉ちゃんと一緒に暮らしているような気分になっていた。

いつも近くにいてくれて、たくさん話をしていたと思う。なのに肝心の彼女のことを僕は今ではほとんど思い出せない。2、3歳くらい歳上だったろうか、もっと離れていただろうか。色白でほっそりとした佇まい、肩口あたりに揃った髪。姿は覚えているのに、今では名前を思い出せない。不思議なことに、母が仕事に出かける日に僕が体調を崩して1人にはしておけず実家に預けられた時も何故かお姉ちゃんがいたのを覚えてる。もしかしたら彼女自身も身体が弱かったのかもしれない。小学生の頃になると家庭の問題で実家から遠ざかってしまったので全く会わないようになり、大人になるまでは小さい頃の記憶など忘れていたくらいだった。なのにお姉ちゃんっ子属性を赤の他人にあっさり見破られてしまうとは、お姉さんの存在感とはとても大きなものだ。

世界は不思議だ

『ペンギン・ハイウェイ』は、小学生の少年アオヤマ君が突如街で起こったペンギン目撃情報を友人のウチダ君と一緒に調べていくうちに、次々と不可思議な出来事を目の当たりにするも持ち前の知恵と勇気と仲間たちとの友情で真実に立ち向かっていく物語だ。

自称賢いアオヤマ君は持ち前の理路整然とした思考能力を武器に様々な事象を解明しようと奮闘する。どんな現象を前にしても「ありえない」といった拒絶の言葉に逃げたりはせず、よく観察して再現性を確かめ事実を正しく認識しようとする、好奇心と探究心の強さには思わずこちらも気持ちを改めさせられる。それでいて他人の気持ちには鈍感な部分があったり、いじめっ子に対して強気な態度を取ってみたり、単なる優秀な少年ではなく人間らしい「ゆらぎ」の部分も持ち合わせている。

そんな彼には、とっても気になる人がいる。優しくって頭も良くて、チェスを教えてくれたり、いつだって彼のことを気にかけてくれる、近所にすむ「お姉さん」。アオヤマ君にとっては、その表情も胸のかたちも理想的な姿をしている。このお姉さん(蒼井優)の声だけが他のアニメらしい声優陣の中でザラリとした特別な感触を持っていて周囲とは異質の理を持つ存在感を鑑賞している人たちにも提示する。彼女もまたペンギン騒動と何らかの関係がありそうだ。そう思うとアオヤマ君のモチベーションも上がる。

しかし、子供たちだけの秘密の研究も、次第に大人たちの手が伸びて来てしまう。アオヤマ君もペンギン騒動に加え更に広がる謎を前にして、今の自分の知識だけでは真実を解明するには力不足だと気付くに至る。

よって、お姉さんは世界だ

いつしかアオヤマ君たちの研究対象は街を巻き込んだ大騒動へと規模を拡大していく。なす術もなく手をこまねくばかりの大人たち。しかしアオヤマ君だけは、お姉さんの存在が謎を解く鍵になると確信する。それは彼だけがお姉さんと世界を優劣なく横に並べ、それぞれの事象を先入観を持たずに関連付けられるからだ。研究仲間の同級生たちや大騒ぎの原因となってしまったことに責任を感じていたいじめっ子たちの力を借りて、真実に向かってひた走るアオヤマ君。その先にあるのは、今まで見てきた世界の向こう側に広がっている新しい世界だ。でもそれは彼に大きな選択を迫る大人の階段でもある。

森見登美彦さん特有の地に足が付いているようで付いていない独特の文章が、現実に寄り過ぎるでもなくブッ飛び過ぎるでもなく奇想天外なアニメーションで見事に表現されていて、観る前はそこだけが心配だったのだけれど全然違和感がなく楽しめた。石田祐康監督の今後も楽しみ。

おわりに

「姉ちゃんがいないのに良い思いしやがって」

僕が幼い頃の思い出を話すと、それを聞いた友人は(彼も僕と同じ2人兄弟だ)羨ましそうな顔を向けた。僕らのように男兄弟しかいないと、確かに姉や妹の存在は手の届かない憧れに映る。ほんの僅かな時間だったとはいえ姉のような存在がいたことは幸運だったのかもしれない。

だけど名前もハッキリと思い出せないままでは少し不安にもなる。もしかしたら僕だけにしか見えない架空の存在だったのだろうか。それとも彼女は僕の記憶のほとんどを消して遠い時空に旅立ってしまったのだろうか。年上の綺麗な女性と話すたびドキドキしてしまうのは、単純に魅力的だからだけでなく、この人も不思議な力を持っているんじゃないかと考えてしまうからなのかもしれない。

F1世界選手権(Formula 1)

夕刻のマジックアワーにアブダビの空が刻一刻と表情を変え、ドラマチックな風景に一年分の思い出が流れていく。そんな感傷などお構いなしにサーキットにはエンジンサウンドが響き渡り、赤のライトが今年最後の仕事を終えて眠りに就く。すると夕陽のオレンジと夜空の藍色、相反する2色のカラーリングに染められたマシンが序盤から緊張感を限界まで引き上げる。

映画

Re:ゼロから始める異世界生活 氷結の絆
(C)長月達平・株式会社KADOKAWA刊/Re:ゼロから始める異世界生活製作委員会

ちょっと時間ができたので『Re:ゼロから始める異世界生活 氷結の絆』を鑑賞しました。直前まで『ターミネーター:ニュー・フェイト』の予定だったので急に変更した自分にびっくらこいたんですが見逃さなくて良かった。

F1世界選手権(Formula 1)

F1ブラジルGP
Photo by Pascal Richier on Unsplash

ファイナルラップ、トロ・ロッソのピエール・ガスリーは実質的に最終コーナーになるターン13にイン側を牽制しながら進入、対するメルセデスのルイス・ハミルトンは思い切りアウト側に寄せてからコーナー出口でガスリーのインに突くクロスのラインを狙う。必死に抵抗するガスリーが許した僅かマシン1台分のスペースに、躊躇なく銀色のマシンがノーズを押し込む。

鋭角な左へのコーナリングを終えれば残るはターン14、15と続く緩い左コーナーのみ。ガスリーの左リアタイヤとハミルトンの右フロントタイヤが並ぶ。ハミルトンが狙い通りの戦術でオーバーテイクを仕掛ける。

もしもガスリーがレッドブルのマシンに乗っていたら、不安定なリアの挙動に加速のタイミングが遅れ簡単にオーバーテイクを許していたかもしれない。だけどトロ・ロッソSTR14はガスリーの思いに全身全霊で応え、ハミルトンを抑えようと無理をした走行ラインからでも勢い良くスピードを上げる。

セーフティーカー明けでお互いにDRSは使えず、あとは2人と2台の力比べ。ガスリーは気持ちでも負けずインから並びかけようとするハミルトンをコース最内に封じ込める。左側はコース外、右側にはガスリー。走行ラインがマシン1台分しかないうえにアレックス・アルボンとの接触でフロントウィングに受けたダメージがステアリングにも影響しているのなら、いくらハミルトンでも多少のプレッシャーは感じるはずだ。

ホンダとメルセデスのパワーユニットが持てる力の全てを放出しチェッカーフラッグを目指す。マシン半分だけ先を行くガスリーにハミルトンのマシンが横に並べず、格下のマシンがチャンピオンのマシンを従えて走る。運と実力、チームの力と運命の気まぐれを全部足し算した合計値が、今この瞬間だけ王者を上回る。手を伸ばせば触れられそうなほど近い距離にいながら300km近い猛スピードでの並走が続き、ほぼ同時にフィニッシュラインを駆け抜ける。

大きな期待を背負って移籍したレッドブルでは慣れないマシンと慣れないチーム、なにより常に視界に入るマックス・フェルスタッペンの強烈な存在感にこれまでのスタイルを破壊されて死んだ魚の目になっていた。F1の政治を迎合するのもチャンピオンに必須の条件であるのかもしれない。だけどトロ・ロッソに戻ってからのガスリーを見ていると、そんな面倒ごとなんて無いほうが、純粋に全力で走る姿のほうが美しく見える。今のままでどこまで行けるんだろう。F1って頂点の栄光だけが全てじゃない。ボロボロになっても自分を失わず戦い続けるヒーローも必要だ。その先にこそ報われる未来があって欲しい。そうじゃなければF1はきっと、ただのマネーゲームになってしまうから。

そんな思いにふけっていると、目の前でガスリーが0.062秒差で逃げ切った。

思わず飛び上がって膝を机に打ち付ける。痛い。でもそれどころじゃない歓喜が湧く。表彰台の上にはガスリーがマックス・フェルスタッペンと並び、野太い声のガスリーコールが聞こえる。今季求められていた結果をようやく果たしてくれたガスリー。チームもマシンも想像と違うし何故か青き衣を纏っていたりするのに、とても自然な感じがする。

明日はきっと左膝もトロ・ロッソブルーだ。

F1世界選手権(Formula 1)

F1アメリカGP
Photo by Pascal Richier on Unsplash

アメリカGPの舞台となる「サーキット・オブ・ジ・アメリカズ」のレイアウトは結構お気に入り。ホームストレートの先にそびえ立つターン1を駆け上がり、左に鋭く切り返して一転下り坂、その先には右へ左と連続するコーナリング区間。ターン11を過ぎると市街地サーキットのように直線をつないだデザインに表情を変える八方美人。いろんなコースのいいとこ取りしたコースは幅も広くて楽しそう。

F1世界選手権(Formula 1)

結果を目にしたなら、予選はフェラーリの速さとシャルル・ルクレールの才能、決勝はメルセデスの強さとルイス・ハミルトンの安定感ってイメージだと思う。だけど、なんですかこの違和感は。

世界ラリー選手権(WRC)

Photo by Ian on Unsplash

2004年からセバスチャン・ローブが9連覇、その後はセバスチャン・オジエの6連覇。フランス人、そして同じ名前のドライバーが君臨し続けた時代が目の前で終焉を迎えた。いつかこの日が来るのはわかっていたけど、まさか次の王者がトヨタのドライバーとはね。

世界ラリー選手権(WRC)

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雨の心配なんてバカらしいくらい普通に雨が降るラリー・GB。今年はハリケーンもやって来て少し不安だったけど、いつも通りのコンディション。タイトル争いも熱い終盤戦で、ここで勝てれば頂点まであと少し。

F1世界選手権(Formula 1)

台風一過の真っ青な空。1年前に見た、モニターの向こうの景色を今でもまだ覚えてる。熱狂、落胆、パワーユニットの咆哮と、この手で直に触れたサーキットの感触。また同じ場所で、新しい歴史が作られる。今年は家の中でまったり観戦。でも全身で体験した思い出は一生消えたりしない。